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寝たきり生活からの復活ストーリー

1000人に1人の重症、陰湿なイジメ、 幾度もの挫折をのりこえてつかみ取ったのは
常識にとらわれず、マインドを変え、稼ぐ力が身につく ドン底の人の成長させることができるスキルだった

ビジネスメンタリーコーチ RYO

代表プロフィール

浪間 亮 / RYOツイッターインスタ

「ビジネスメンタリー」開発者/ビジネスメンタリーコーチ
株式会社EXTREME VISION 代表取締役

医療器械の技術者として12年、6000件を超える歯科医院の器械をサポート。気難しいドクターのクレーム処理達人としてNo. 1の実績を作る。

そんな矢先、悲劇が起こる。交通事故に巻き込まれ原因不明の後遺症に3年苦しむ。その後、夫婦のすれ違いにより離婚、子供と離別、生きる目標を失った。

しかし、困難を乗り超え人生を取り戻すことに成功。

このドン底経験から「思考と感情が変われば人生も変わる」という大きな自信を得た。


これを機に心理学、コーチング、脳科学、マーケティングを学び、経営者など自分の力で道を切り拓く人の力になりたいと起業塾で独立開業する。


ところがビジネステクニックの悩みよりも成果を連続で出し続けるためのモチベーションに関する相談が後を絶たなかった。

そんな時、メンタル8割、テクニック2割で伝えたことで成果が一気に上がり、月20万円の売上が200万円になり、単月で黒字転換するなど多くの成果報告を受ける。


現在は、しなやかな精神力でどんな状況でもビジネスを楽しめるようになる「ビジネスメンタリー」を元に、経営者や個人サービス業の方をサポートしている。


自分を誤魔化さず本音で生きることで経営者人生を輝かせてほしい。

経営者が元気になればなるほど世界は明るくなる。

そのために自分の持てる力の全てを注ぐ覚悟でこの仕事に取り組んでいる。


【保有資格】

マインドマップ公認インストラクター

NLPプラクティショナー

LABプロフォイルプラクティショナー 他

人生ストーリーRYO’S Story

INDEX

この世から消えてしまえ! 勉強なんて…

小学生時代

  • 勉強が大嫌い、勉強をする理由をちゃんと教えてくれる先生がいないことに疑問
  • 仲間を10名集めて遊ぶことが得意で自分から遊びのルールを考えていた
  • 休み時間中に遊んでいたボールが学校近くの川に落ちて流れしまう、授業に戻らず川を下りボールを探しに行く(廊下に立たさせる)
  • 親から読書をするように何度も言われるが、本を読むことが苦手で苦しかった
  • やりたい放題で地元の中学に進む

ダムダム!!俺は世界に出るぞ!

中学時代

  • マイケルジョーダンとスラムダンクの影響でバスケット部に入部。全国で一位になる夢を持つ。ところが市内でも一番の弱小チームで有名だった。
  • 先輩たちの練習試合では、100点ゲームをされる程のメチャクチャ弱いクソチームだった。先輩たちも自分たちは弱いことを認めているほどで練習もお遊びだった。
  • 想像していたバスケット部ではなかった。。。そして、自分たちの代になったところで大きな変化が起こる。
  • バスケに命をかけている程の熱血の先生が赴任される。 ここからの今までのお遊びから、全国を目指すチームつくりがはじまる。
  • 50名を抱えるキャプテンとして選ばれる
  • キャプテンは偉そうに指示をするものだと勘違いをしていた自分、同級生や後輩に色々と指示をするものの、誰も言うことを聞かない!
  • 顧問の先生に「あいつら俺の言うことを聞かない!先生、あいつらを叱ってください!」とお願いすると・・・「お前はバカか!!」と逆に自分が職員室の中で叱られた。

「キャプテンは仲間がやりたくない仕事も全て率先してやるんだよ!!!」と言われ その日は、練習が終わった体育館をひとりで雑巾がけをして帰った。 次の日も雑巾がけ、ボール磨きとひとりでずっとやった。 なんで俺だけ!と不満に感じながらやっていると、あることが起こる。

同級生が「俺もやるよ!」と声かけてくれた、ひとりからふたり、そして、それが連鎖して同級生全員が一緒に掃除をしてくれていた。

それを見ていた後輩が、自分もやりますと動きはじめてくれた。 いつの間にか、掃除やボール磨きをみんなでやっていた。

この時、はじめてキャプテンの必要性の意味が理解できて来た。 キャプテンが実践することで、仲間のみんなが動く、それが結果としてひとつのチームを作っていくことに大きな気付きを得る。 そこから1年分の練習不足を取り戻すための、唸るほどの猛練習がはじまる。 足をつったり、体力の限界までやる練習にみんなが汗を流した。 練習はキツかったが、何よりもバスケを本気でやっていることが楽しかった。

夏の新人戦、市内で初の再々延長線となる激戦になる。この白熱した試合に気づけは外部の応援席が満席となり、 自分たちの話声も聞けないほど、周囲の応援で盛りがっていた。そして、試合終了。わずか1点差で自分たちが市内で優勝した。

バスケのスタメンは5名。それ以外は全員ベンチ。それなのに優勝した瞬間、ベンチの仲間がみんな泣いて喜んだ。 何よりそれが一番嬉しかった。バスケをやっていた良かったと心から感じた。

1000人に1人という診断

その後も勝ち進み、16年ぶりの班大会優勝など、勝てるチームへとどんどん成長していく。そんな矢先、膝があまりにも痛くて練習ができなくなる。 専門医に調べてもらうと二分膝蓋骨という生まれつき、膝のお皿が半分に割れていることが分かり、特に自分は完全に真っ二つに割れており 1000人に1人くらいの重症だと診断された。 それでもバスケを続けた、とにかく筋力アップをはかり筋肉で膝をカバーした。 勝ちたい!もっとうまくなりたいという気持ちが強くなり、部活の練習が終わっても 自宅に帰り、夜は1時間公園のバスケットゴールを使ってシュート練習を毎日続けた。

その後、バスケットゴールにぶら下がることができる程に体力も筋肉もついた ところが、ある日の朝、腰回りの激痛で歩けなくなる。 至急、スポーツ整形外科でレントゲンを撮ってもらうと、骨盤が剥離骨折を起こしていた。 原因は成長期に過剰な練習のやり過ぎだった。

他校との練習試合中に、壁に激突し肩を骨折。 中学最後の大会が2ヶ月後と迫っている中での肩の骨折は大きなダメージとなる しかし、頭が悪かったせいか?2週間で骨折を治せると自信を持っていた。 そのために、牛乳や煮干しなど「カルシウム」というもの食べまくった。 そして、夜寝る前は、骨がしっかりと、くっついているイメージを何度もやった。 そして、骨折をしてから10日後、無理矢理、医師にお願いしレントゲン撮影してもらう。 すると、医者もビックリ!骨折した箇所がしっかりと接合されていた。 それから、中学3年生の引退試合に備えて、ひたすら練習に打ち込む。

・・・・・・・・・

新人戦から市の大会で負けたことがなくずっと勝ち続けて来た。 今年こそは、県大会に行くぞ!と気合十分だった。 順調に勝ち進み、決勝戦の相手は大和中学校だった。 この3年間、市大会での決勝は決まって大和中学校だった、いつもとおりやれば問題なく 勝てると誰もが思い込んでいた。 ところが、試合がはじまると、思うように自分たちのゲームをさせてくれない。 格段にディフェンス力が上がっていることに、こちらも驚きを隠せなかった。 そこから、10点リードされたゲームが続く。 もしかしたら、このまま負けてしまうかもしれないという焦りが心の中で徐々に強くなっていく。 xパス回しもうまく出来ず、個人プレーで点数を稼ごうとすることでチームとして完全に機能しなくなっていた。 そして、どこか遠く笛を吹く音が聞こえた。。。 そう試合終了のホイッスルだった。自分たちが負けた、しかも、市予選敗退。 信じられなかった。負けた悔しさから頭が真っ白になり、自然と涙を堪えることができず、大粒の涙が溢れ出した。 来客席には今まで応援し続けてくれていた、同じメンバーの親がたくさんいた。今までは、勝利したあとに保護者の目の前で バスケ部メンバー全員で「ありがとうございました」と大声で挨拶していた。 しかし、今回、初めて市予選で負けてしまった、、、今までたくさんの応援をしてくれた保護者の方への挨拶ができなかった。 あまりにも悔しく、情けないという気持ちで、キャプテンでもある自分が最後の挨拶の音頭を取ることができなかった。 それを口にしたら、今までの全てが終わってしまう。。。そんな気持ちだった。

僕たちは君たちを倒すために3年間がんばったんだよ

そして、最後に相手チームの監督に挨拶にいった。 するとこんなことを言われた。 「僕たちは君たちに勝つために3年間頑張って来たんだよ、君たちが居てくれたから強くなれた、ありがとう」と言われた。 負けたことは事実として悔しかったが、相手チームの監督から自分たちを評価してくれたことは嬉しく感じた。 バスケットというスポーツが自分自身をこんなにも熱く、夢中にさせてくれた。 全てはバスケのためにという気持ちで学校生活を送っていた中学時代

高校なんてやめたい!まさか自分がなるとは・・・

高校受験はせず、推薦で入れる高校を選び、何の苦労もなく入学する。 ところが、入った高校はお世辞でも素晴らしい学校とは言えない程遠いものだった。 高校なんてどこも同じだろうと思っていたが、実際はそうではなかった。 学校生活の規則も緩く、それを守る生徒がいなければ、それを厳しく注意する教師もいない なんてところに来てしまったんだと入学当初に後悔していた。

そして、学校生活がはじまり半年ほど経ってから、あることが起きた。 同じクラス内のヤンチャ組が他クラスの子を蹴ったりとイジメはじめた。 すぐに終わるかと思いきや、中々、そのイジメが終わるところがエスカレートして行くので そいつらに対してこう注意した。「お前らがやっていることはバカがやることだ、お前らはクズだ!」だとハッキリと伝えた。

すると、他クラスの子を虐めることがピタッと止まった。 その代り、矛先が自分になった。

毎日、下駄箱に生ゴミをぎっしりと入れられたり、買ったばかりのローファーをその日に隠されるなど、目に見えないところの嫌がらせというイジメが始まった。

はじめのうちは、絶対にそいつを捕まえてやる!という気持ちがあったが 中々、犯人を見つけることができない。

そのうち、自分のクラス全員が敵に思えてきた。今笑っているこいつがやっているのかもしれないと、人を疑うようになり、そこから、友達と話すことができなくなり、最後にはひとりぼっちでランチをするようになる。

この嫌がらせが90日間も続くと、気持ちの限界に近づいてきた。 心の中では、毎日、「学校やめたい」という気持ちだけで高校を通うようになっていた。

そして、誰にも相談できなかったが、唯一、母親には今の現状を打ち明けた。

すると、母親からこう言われた。 「堂々と学校に行きなさい!こ こでそいつらに負けたら、定時制高校に行っても同じようになる!何あれば私が出るから心配しないで」と母から強く背中を押してくれたときなんだかちょっぴり安心した。 自分はひとりではないと。 そして、次の日から、ある作戦を実践した。

それは奴らが生ゴミを入れる前に、先にこっちが生ゴミを入れておくこと。 奴らが開けた瞬間、生ゴミが奴らの足元に落ちるようにした。

しかし、人に対する考え方は癒やされなかった。 友達はいらないという気持ちで高校生活を過ごした。

そんなとき、ずっと心の支えになっていたのが、エレキギターだった。 バスケができなくなり、バスケと同じくらいに熱中できるものを探しているとエレキギターに出会った。 中学時代に遊びで弾いていたのをきっかけに高校では本気でバンドをやろうと音楽活動に力を入れた。 学校が終われば真っ直ぐ家に帰り、毎日6時間以上の練習を続けた。 高校生活が楽しくなかったこともあり、よりギターの練習に没頭する。 そして、いつしか、エレキギター職人になって世界で活躍できる人間なるという夢を持ちはじめた。 周りの人たちは大学へ行くひとがほとんどだったが、大学に全く興味がなく、早くエレキギターを作りたい!その夢が待ちきれなかった。

ところが卒業間近になって、体育の時間に取っ組み合いのケンカを起こしてしまう。 元々、学校もそんなに来ていなかったので、数学の単位があとひとつという崖っぷちの状態の中でケンカをしてしまい、卒業に待ったがかかってしまう。

幸い、体育の先生と仲が良かったので、今回のケンカはなかったことにしてくれた。

そして、何とか高校を卒業した。 何の感動もなければ、いい想い出もない、当然、涙なんて出るはずもない。 それよりも、やっと本気で自分がやりたいエレキギター職人の学びができることに喜びを感じていた。

世の中は、なぜ、俺を味方にしてくれないんだ!!

高校も何とか卒業し、夢のエレキギター職人を目指すために専門学校に通う。 すぐにギター製作とはいかなかったが、自分がやりたいことを学べる楽しさに毎日が充実していた。 特に奨学金制度を活用して通学していたので、何がなんでも知識やスキルを身につけ音楽の世界で食べて行こうという決意があった。 刃物の使い方から、デザインや設計図を書き、0から全て自分で製作するということが楽しく卒業までに20本のエレキギターを製作し、その一方で音楽仲間の楽器を修理することもやっていた。 「よーし!これでギター職人として食べて行くぞー!!」と思っていた矢先、音楽業界の不景気でギター工房が相次いで倒産。就職先が一軒もなくなった。 卒業して、すぐに学費を返して行かなくてはいけない状況の中、就職先は見つからず、最後に選んだ道がプー太郎だった。 何もかもが嫌になり、働く意欲が一気に失せてしまった。

TPOって何?常識外れな働き方

プー太郎を半年もやれば、お金もなくなり働かなくてはいけない状況になった。 そんなとき、たまたま求人広告で見た、神田神保町にある200名規模の医療器械会社が目についた。 どうせやるなら、自分の成長につながる仕事をやろうと、思い切ってバイトの面接を受けに行く。 すると面接官からこう言われた。 「金髪で面接に来た人は君がはじめてです」と。 そこで金髪の理由を具体的に話、特に音楽という世界を目指していることを熱く伝えるとなんと、その場で合格してしまったのである。 しかも、営業マンとして正式に入社してほしいということをお願いされてしまう。 元々、ネクタイをしめて働くことに違和感があったので、その場でお断りする。

そして、バイトをやりながら、バンド活動を続ける日々を送る。 全ては音楽のためにという考えしかなかった。 元々、真面目に働く気持ちがなかったので、夕方になると腹が減るので職場を逃げ出しラーメン屋で1時間ほど暇つぶす、なんてことをよくやっていた。 自分の好きなことに関しては何でもやるが、こと働くということになるといい加減なところがあった。

そんな適当な考えで仕事をしていると、それを正すかのような厳しい状況が起こる。

余命6ヶ月です。残念ですが・・・・

父にガンが見つかった、しかも末期の肺がんで余命6ヶ月という宣告を受けた。 家族のみんな黒い渦の中に飲み込まれて行くような、そんな空気感が家の中で漂った。 今まで適当に働いて来た自分が急に恥ずかしくなり、情けなくなってしまった。 「家族のために頑張って来た父がなぜ余命宣告を受けなくてはならないのか!」という怒りが込み上げて来たのと同時に、家族みんなで何が何でも父を助けようと家族で団結した。金髪だった紙を黒にそめて短く切った。 自分も父と一緒に戦う決意だったのかもしれない。そして、その3ヶ月後、52歳という若さで天国に逝ってしまった。 一緒に飲み屋に行くこともできなかった、仕事の話をすることもできなかった、社会に出たばかりの自分が父という存在に感謝を持ちはじめたばかりだった。 父に対して何もやれなかったという後悔だけが強く残った。しかし、父が最後に大きなものを残してくれた、それは、「家族の絆」というとても温かいものだった。 そして、次の日、今までお世話になった会社に辞表を出し、バンドは趣味レベルのもの置き換え、本気で働くことを考える。

無理矢理の面接お願いします!

中々、再就職先が見つからない中でやっと見つけたのが、医療機器メーカーだった。 急いで電話をしてみると、すでに面接は終わり採用も確定したと電話先で断られる。 それでもいいからと、無理矢理面接をお願いした。 そして、面接の中で自分の手先の器用さやギター製作、自分が入社したときのメリットを伝えると、なんと、その場で合格。

え?何この会社、大丈夫か・・・

医療機器メーカーに入社し、修理科に配属されが右も左も分からない。 主に高圧蒸気滅菌器という世界で確認されているウィルスを殺滅させる装置を作っている専門会社。 20名規模の小さい会社だったが、技術屋の集まりだったためアイデアや手先の器用さ誰もがすごかった。 ところが、いざ自分が仕事を覚えようとすると一切マニュアルがない。 すべてのマニュアルは技術者の頭の中にしかなかったので、何をどうやっていいか分からない状況の中でミスをすれば、 何やってんだ!」とみんなの前で怒られるという悲惨な環境だった。

この日を境に毎日辞めたいという気持ちがあった。 しかし、ここで辞めれば今までと変わらないという気持ちで歯をくいしばって頑張った。 段々と仕事を覚えはじめた頃、社内で年に一回あるプレゼン大会で滅菌の修理における技術マニュアルを作成しプレゼンをする。

すると、最優秀賞を獲得。自分が入社したばかりのときに欲しかったマニュアルが高評価を得た。 毎日辞めたいと思っていた仕事がやっと楽しくなって来た。 そして、ある時、一番の大得意様の器械をすべてひとりで担当するという責任ある業務に就く。販売台数も圧倒的に多いので、あるものが一気に増えた! それは「クレーム」だった。 日々の仕事の中で器械の修理よりも、クレーム処理がどんどん増えて行く。 また、ドクターからのクレームは非常に厳しく精神的に追い詰められた。 このままでは、うつ病になってしまうかもしれない危機感すらあった、そんな時、どうすればクレーム処理をいい形に終わらせることができるのかということを考える。 そこで気づいたのがスピードだった。顧客はクレーム後に待たされれば待たされるほどイライラし、関係のないことまで言ってくることがわかった。 スピード解決が何よりもクレームを最小限におさえることができる。 そして、そのスピード戦略で行ったのが、ある程度の解決策を先に伝えてしまうということ。 上司の意見を待っていては、解決に時間がかかるため、独断でOKサインを出すことだった。上司には事後報告になるが、 そこで、解決できるストーリーを分かりやすく伝え、最後は自分に任せてください。と伝えると、それで頼むよ!という流れができた。 この戦略を使ったおかげで、今までのクレームがスピード格段に上がり、顧客満足度もアップさせることに成功する。

仕事も任せれ、そろそろ落ち着こうと長年付き合って来た彼女と結婚

車はピンボールのようにあちこちの壁にぶつかりながら一回転した。何が起こったのか全く理解できなかった。 運転席に座っていた自分はシートベルトから体が外れ、助手席にまで飛ばされていた。 よく見ると、遠くでボンネットから煙を上げている車がいた。 ここではじめて状況が理解できた。信号無視で相手が突っ込んで来たのだった。 車から降りると、突然、吐き気が襲ってきた。体が思うように動かずあちこちが激痛になり地面に座り込んでしまった。そして、遠くの方で救急車のサイレンが聞こえてくる。 周りはたくさんの野次馬だらけだった。そして、救急車に乗り込むが、10分経っても走り出す気配がない。 救急隊員が色々な病院に電話をしているが、受け入れてもらえる病院がなく、どんどんと時間が経過する。 そして、救急車に乗ってから60分後にやっと走り出した。 ところがやっと受け入れてくれた総合病院の外科医からビックリする言葉を言われた。 「湿布を貼っておけば治る」体にも触れず、あまりにもずさんな診察だった。

一日経ってからの痛みはさらに増していた。しかも、左腕が思うように上がらず、お茶碗を持つことさえ辛かった。 左足も強い痛みがあり歩けない。体の左半分が痛みと思うように動かない状態だった。 その日も大きな病院行き精密検査を受けたが、原因が分からないとだけ言われ、対処方法も何も教えてもらえなかった。ここから20件近くの病院に行くがどこもまともな対応をしてくれない。何よりも医者と言われる人たちは患者の声を聞こうとしなかった。 数字と理論ばかりで目の前の患者を見ようとしなかった。 少しでも良くなるために、色々なことやったが大きな成果は出なかった。 仕事も数ヶ月休んでいたが、結婚したばかり、住宅ローンを組んだばかり、ずっと休んでられないという焦りから無理矢理、復帰する。 しかし、体の痛みがつらく、午後3時頃になると毎回、トイレで嘔吐を繰り返した。

痛みとの戦い

薬を飲んでも全く効かない。痛みがどんどん酷くなっていく、そんな時、病院で神経ブロック注射を進められやってみた。 首に注射し、首の骨に当てて、それを揺らしながら薬を注入するという作業を全部で3本やった。 そして、背中に3本、左の膝にも打ち込んだ。体の痛みなのか、注射の痛みなのか、判断がつかないほど脳は痛みに麻痺をしていた。 そんな辛い注射が終わり、自宅に帰っている途中、あることに気づく! 「痛みを感じない!」交通事故から1年以上経っていた。とにかく嬉しかった。これで体が元通りになれると心から喜んだ。 ところが、注射してから3日目にまたいつもの痛みが戻ってきた。 しかし、今度は大丈夫!注射があるから問題ないと直ぐに病院に行って、注射をしてもらう。 そして、その日の夜、薬の副作用で40度を超える熱が出る。 もう、注射は使えない。。。また、希望の光が消えた瞬間だった。

それを期に病院行くことを辞めた。どうせ、誰も治してくれない。医者なんて嘘つきだ!と思うになった。 ここまで何とかして元気になろうと頑張ってやって来たが、最後の一本の糸がプツンっと音を立て切れたのが分かった。 そこから、痛みを抱えながら仕事を通い始めた、しかし、1日行けば、3日休むという状況の中で、有給も全てなくなり、時間給になった。 ひと月10万円くらいしか稼げることができず、ほとんど会社に行けなかった。また、上司からは、「お前の気合いが足りないからだ!」だとか、 「こんなに休んでどうするんだ!」と言われ続けた。 このとき、こんな状態の自分をクビにしない会社を恨みはじめた。

苦しみの限界点を超えた瞬間!

そして、事故から2年半経過した、ある夜、痛みの限界と会社での人間関係の苦しさからのたうち回るほど発狂した。心の限界を超えたところでパニック障害になり、さらには過呼吸になり、救急車を呼ぶ騒ぎになる。 これを機に、自分という人間がどんどん腐っていくのが分かった。 人を憎み、自分を否定し、社会を歪んでみるようになった。 それから人が変わったように、笑顔がなくなり、常に誰かを恨み、 「どうして、オレだけ・・・」と生きることへの苦しさだけを毎日味わっていた。

しかし、ひとりだけ、自分の人生を諦めなかった人がいた それは、母だった。 母は自分が治せる病院や医者を探していた、そんな母があるとき読書嫌いな自分に一冊の本を手渡してくれた

その本のタイトルが「引き寄せの法則」と書いてあった。

母は、「面白そうだから読んでみたら?」と勧めてくれた。 読書嫌いな自分は今まで本を読むことなどしなかった、ところが何となく読み進めてみると話の内容にどんどん吸い込まれていった。

その内容は、全ての現実を引き起こしているのは、自分がそれを引き寄せているという話だった。あっという間に一冊読み終わり、再度、もう一度深く読みながら、今の自分の現状と照らし会わせながらノートにメモを取った。

ここで初めて気づいた、自分が想像していたこと、声に出していたこと、感じていたことはマイナスのものばかりだった。 だから、今の現実があるのだと、本を通じて大きな気付きを与えられた。

・・・・・・・

ここから自分の思考次第で現実を変えられるかもしれないと本気で思い始めた。 病院も薬もうまくいかない、最後は自分でやるしかないという気持ちがジワジワと心の底から上がって来た。 ただ、自分の気持ちをどう変えていいのか、分からなかった。 そこでまず、楽しい気持ちになるような想像をしてみる、ところが意識してみると想像できるが、無意識になると、また、マイナスのイメージに逆戻りしてしまう。 この時、痛みという力がマイナスのイメージを引き起こす原因になっている、だから、痛みに意識がいくと苦しくなるという考えにたどり着いた。 痛みを軽減して行くことが、復活への大きな一歩につながると信じた。

良いイメージ、良い言葉、良い気持ちになるために、試行錯誤しながら自分で自分を変えよと必死でできることをやった。 最初の1ヶ月はうまく行かなった、ところが3ヶ月を経過したとき、ある変化が起きた! これまで無意識の状態のときに、「今、どんな気分か?」と自問自答したとき、加害者のことを考えていたり、苦しくなるような想像をしていたがこの3ヶ月目にしてはじめて、楽しいと思えることを考えていた。事故後、ずっとネガティブイメージばかりだった中ではじめて前向きなイメージが湧いていた。 この瞬間、自分の脳を変えられると確信に変わった。

これまで、当たり前のことが当たり前でなくなったことで今生きていることへの感謝や、多くのものに感謝する気持ちが溢れ出した。 交通事故から動けなくなった惨めな自分を受け入れることで、苦しさから開放されはじめた。

復活!そして・・・・

そして、3年かけてやっと動けるようになり、スポーツジムまで通うことができるまでに体も心も復活することができた。 そんな矢先、離婚になる。結婚と同時に動けなくなったことでお互いケンカがたえることなく、これ以上はお互いが幸せにならないということで離婚。 自ら切り出した離婚だったが、その後、離婚が決定すると、虚しさだけが、ただただ残った。 特に一歳半の娘と離れて暮らすことへの寂しさが何より辛かった。

人生!初の学びとは?!

体は復活したが、人生をもっと変えて行きたい!しかし、何をどう変えていいか分からなかった。 そんなときに偶然見つけたのが、アメリカの心理学NLPだった。

思考を変えることで現実を変えることができるという内容に興味を持ち、セミナーに参加する。 そこで聞いた内容は、自分自身が事故から復活するためにやって来たことが心理学という視点から科学的に考えて行くという内容だった。 まさに、今の自分の人生を変えられるのはNLPだ!と思い、その場で申込書を書いていると、あることに気づいた。 講座の費用が30万円、3万円だと読み間違えてしまったのだ。 動けるようになって、やっと貯めた貯金が30万円ピッタリだった。 お金が無くなる恐怖から、学びを断念し帰宅する。

エイヤー!!とはいかず4時間悩む

ところが、その夜、ガバっと目が覚める!!「やはり学ぼう!」お金を持ち続けても何も人生を変えることができない。 そして、次の日、すぐに申し込むことができず、パソコンの前で本当にうまくいくのか? という自問自答を4時間繰り返し、最後はエイヤーで申込むボタンをカチっとクリック!。 そして、現金一括払いで生活が一気に苦しくなる。

養育費や生活費などを支払いすると、手元に残ったのは毎月5,000円しか残らなかった。 そんな崖っぷちの状態で心理学の学びが半年間スタートする。

はじめて見る世界

今までセミナーや講座経験が全くなかった自分がはじめて見る世界。 そこには、自分と近い世代の人が経営者だったり、管理職など、すごいと思える人がたくさん集まっていた。 こんなに凄い人たちと学びができるのか!と気持ちが一気上がる。 人生を変えたいという漠然な考えだけ来ていた自分だったが、他の人たちは具体的な目的、目標を持っていた。 その時点で色々と学びになることがたくさんあった。

心理学とはそもそも何なのか?ということを仲間と一緒に色々な角度から学びを深めた。 人の話の聞き方、傾聴という言葉を耳にしたのも、この学びからだった。 今まで傾聴というものしらずにコミュニケーションを取っていた自分が勿体無く思えて来た。 とにかく傾聴をマスターするぞ!という思いで「聞く力」を身につけるために会社でも友人との話の中でも徹底的にやった。 すると、自然と周りの反応が変わりはじめたことに気づく。「話を聞いてくれたありがとう」などの声をたくさんもらえるようになり、 学びを実践することの意味を実感する。

向上心を高め合う世界

心理学の学びをどんどん深め、実践して行く中で、一緒に学ぶメンバーとの信頼関係が強くなっていった。 お互いを尊重し合い、認め合う、そんな空気感で学ぶ時間は自分にとって夢のような時間になり、お互いに向上心を高めあう世界こそが、 今の自分を変えることに最も必要だということを深く感じた。

最優秀賞?

涙あり、笑いあり、真剣に学びあった、半年間がいよいよ最終日を迎えた。 何もない自分を変えたい!ただそれだけで一歩踏み入れた自分史上最高の高額講座の中で学んだことを仲間や会社で実践し、多くのノウハウを手に入れることができた。 そして、何よりも自分を支えてくれる、勇気を与えてくれる素晴らしい仲間にも出会えた。 そんな時間が今終わろうとしている、この瞬間、心の奥底から不安と希望が込み上げて来る。 そんなことフッと考えていると、突然、自分の名前が呼ぼれた! それは、講座の終了場面で、50名もいるメンバーの中で、誰よりも盛り上げた最優秀賞として、自分が選ばれたのだった。みんなの代表で修了証を受け取った。 自分よりも、すごい人がいる中で一番前に立ち、あいさつをさせてもらう。 自分が尊重されている、承認されている嬉しさから、涙が溢れそうになった。 そして、こういった。「交通事故、離婚、希望がない人生」これを変えたくて、ただ、それだけ飛び込んで来たと。 すると、一緒に学んだ仲間から「生きていてくれてありがとう」という言葉をたくさんもらった。あまりの嬉しさにこらえていた涙が溢れて来た。 そして、心理を一緒に学んだ一番の親友からこういわれた。 「そこからの復活こそ、RYO君の強みだよね!!」と、そんなこと言われたのは、はじめてだった。今まで、交通事故の話は誰にもしなかった。 それは、人生の汚点だと思っていたからだ。こんな恥ずかしいことは人に話せない。 しかし、ここに来て、自分の知られたくない過去を全て話したことで、「これまでの辛かった出来事を乗り越えたんだ!!」と自分自身を肯定したことで、 未来に向かって大きな一歩踏み出したことを強く感じると共に、自分のステージを一段上げる覚悟がより一層強くなった。

 

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